書くことについて

自分のノートを読み返して、過去には随分、長い文を書いていたものだと感心している。

最近は、本を1冊読んで、ああ、面白かった、さあ、次は何を読もう、という一連の流れで、読んだ本をじっくり味わうというか、読んだ本について考えて見る時間が殆ど無い。

最近の読書傾向は、ある作家について集中して読むことが多い。

昨年で言えば、夏目漱石と内田樹の本を集中して読んだ。漱石はだいたい読んでしまったので、次は何を読むかあまり決めていない。内田氏の本で紹介されていた本をいくつか読んだりしている。その流れの中で

スコット・フィッツ・ジェラルド「グレート・ギャッツビー」-レイモンド・チャンドラー「ロング・グッド・バイ」-村上春樹「羊をめぐる冒険」

というのがあった。村上春樹や内田氏に解説されると、ああなるほどと思うのだが、自分で読んだ限りでは、そんなに流れを汲み取ることが出来なかった。それでも、こうした読書は、書物が有機的に繋がっているようで楽しむことができる。

さて、もとに戻ると、1冊一冊の本を読んで、そこで立ち止まって考えてみることも、結構楽しいことだと思う。

一瞬「役に立つ」と書こうかと思ったのだけど、人生、「役に立つ」ことが、そんなに重要だと思えなくなってきた。「役に立つ」から読むよりも「楽しい」から読むほうがいいのじゃないかと思っている。

本が役に立つというのは、「実用書」に対して使う感覚だ。本当は、「道徳的」とか「教訓的」とか「社会的」とかいろいろな面で、役に立つということもあるのだろうけど、もう、自分というのはある程度、出来上がってしまっているので、「役に立つ」知識というものには、あまり影響を受けなくなってしまった。

これからは、読める本の量も限られてくるし、苦労してつまらない本を読むより、楽しんだり、読むことで充実感を感じられるようなものに重点を置いて読んでいきたい。そして、読んだことと同程度には無理だとしても、読んだものに対して、それなりに考えたことを書いていきたい。

Bach Partita : Glenn Gould

partita.jpeg調子が悪いから、少しでも気の休まる音楽を聴こうと思い

思いついたのはグールドのバッハ

初めて聴いた時の印象が強かったのがパルティータ

第1番の出だしが何ともきれいなんだ

ピアノの繊細な音

今でも、気持ちを落ち着かせようと思う時にはよく聴く

録音データを見ると第1番が1959年録音となっている。

グールドは存命中に聴いていて、死亡したのが50歳という若さだったせいか、

何となくまだ最近の人という感じがしていたが、もう、55年前に録音された

ものなのだな。

全てに抑制が効いている。非常に軽やかなタッチなのだが、決して軽薄にな

らない。そこにメロディーが浮かび上がってくる。

音と音が有機的に繋がっているような感じで、結束感がある。

ブログ名、ブログの説明

なあぜ治ったかはわからない。

やったことは、テーマを変えてブログを再構築しただけ。

体調わる~

今日も体調不良でお休み。体調というか、心の調子が悪いというか・・・

朝、気力がわかない。しばらくすると、少し良くなるのだが、基本的に

何かをしなければと考えると、それができなくなってしまう。

何とかならないものか。

自分が技術者としてやっていくということに無理はないか?

本当に望んでやっているのか?

新しいことを始めるのが億劫になる年頃だ。

勉強していて理解不能の状態になる。

きつい生活には耐えられない。

人に期待されていることと自分の実力にギャップを感じる。

納期のある仕事には焦りを感じる。

まあ、いろいろとあるな。

では、いいことはあるか。

新しいものを習得した時には喜びを感じる。

納期が守れた時には達成感を感じる。

頭を空っぽにして技術的なことをしているのは楽しい。

MT6.1.2

MT6.1.2にアップグレードしたのだが、ブログの名前、ブログの説明が、全般の設定

で設定しているにも関わらず、表示されない。

わからないので、あきらめる。

Monteverdi – Vesspro Della Beata Vergine

Schneidt の演奏を聴いている。

このCDを買いに行った時、石丸電気だと思ったけど、選択肢がなかったので
買ったという記憶がある。

当然、演奏家のことは知らず、また、この音楽そのものにも親しみがなかった
ので、これがいい演奏かどうかわからなかった。
今、改めて聴き直しても、いいかどうかわからない。
昨日、寝られなくて、本棚を見ていて、たまたま手にとった宇野功芳氏の本の
中で、一番先頭にこの演奏があったので、聴いてみる気になった。
で、感想はというと、やはりわからない。
合唱だけ聴いていると、それなりにいいなあと思えるのだが、ソロがあると
そこで、静けさがぶち壊される感じがして嫌になる。
バッハのマタイなんかだと、そんな気がしないのだが。
他の演奏も聴いてみるといいのかもしれないが、曲の長さを考えると
ちょっと気が引ける。
でも少しだけと思い、サバールの演奏を聴いてみる。
これが、聴きやすいんだ。伴奏がかなり大きめの音で、ソロがそんなに気合を
入れておらず、いい感じ。サバールらしい落ち着きがあるんだ。
またソプラノとか女性が歌ったほうが、自然な感じがする。男性がやると
高音を出すために気合が入りすぎる感じがする。
この演奏なら、もう一度聴く気がする。
複数の独唱者が歌うところなどヒリアードアンサンブルのような感じで
(どんな感じだ 笑)好感が持てる。

誕生日

30歳を過ぎてから誕生日なんてもういらないと思っているのだけど

また誕生日がやってきてしまった。
Facebookで皆から誕生日のメッセージをもらった。
誕生日のお祝いについて、こういうさりげないのがいいですね。
今日で55歳になってしまった。もう四捨五入すると60なんだよね。
でもまだまだ先は長いのだから、老化しないようにいろいろな
ことをしていこうと思っている。

シャイーのマーラー再び

吉田秀和氏のマーラーについて書いた文を集めた『マーラー』という文庫本

を読んだ。
その中でシャイーのマーラーの演奏についてぼ文があった。
吉田氏はマーラーの交響曲第4番を例にとって、マーラーの楽譜に示された
細かい指示を一つ一つ忠実に再現しているかのような演奏と表現していた。
そのために音楽の流れが淀んでしまうようなこともあるとも書かれていた。
これを読んで、シャイーのマーラーが何となくわかってきた気がした。
シャイーのマーラーはスコアを見て聴いたときに納得のいくような表現なのだと。
当然、シャイーのマーラーはクールであり、スコアに示されたことを忠実に
再現しているのだろう。
また、演奏しているのはそんなことができる高い技術を持ったコンセルトヘボウ
管弦楽団だった。
たぶん、私のような一般的なマーラー愛好家にとっては、マーラーがスコアに
示したことを忠実に再現してくれてもそれに気づくこともないだろうし、これ
を聴いて素晴らしい演奏だと思うのも不可能なのだろう。
でも、シャイーのマーラーは繰り返し聴いてきた。そして段々とその演奏が
好きになってきた。

ジンマンのマーラー、交響曲全集

ジンマンマーラーの交響曲全集を買った。

Zinman.jpg

最初に第9番を聴き、それから最初に戻り第1番「巨人」から順に聴いてきた。
これはSACDとのハイブリッドなのだが残念ながら私はSACDプレーヤーを
持っていない。
しかしCDとして聴いても非常に音がよい。
さらにジンマンの演奏が遅めのテンポで細部までよく見渡せるような演奏と
なっている。
マーラーがスコアに示した音楽の構造を掴むのには非常にすぐれた演奏だと
言える。
しかしこの演奏が心に浸み込んでくるかといえば、そうは言い難い。
マーラーの作品は大変長大であり、いろいろな要素を含んでいると思う。
だから個々の指揮者が表現するものはマーラーのある一面に過ぎないの
だと思う。
この演奏からはマーラーの交響曲の構成美を味わうことができるが
その分マーラーの情念的なものは希薄になっている。
マーラーの音楽は奥が深い。

クラシック音楽って

自分に関心のある主な指揮者、ピアニストの誕生年月を調べて

2011年が生誕何年になるのかべて見た。
結果は主な指揮者主なピアニストであるがこれを見て少し
考え込んでしまった。
自分の関心のある演奏家というのはほとんどがもう50歳を越えて
いるのだ。
特に指揮者なんかはもう生誕100年越えの人ばかりで、一体
若い演奏家はどうなっているんだろうと思ってしまった。

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